渋治の書庫

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メンテ中

右手




 
右の犬歯がどうも最近ぐらついてきた。それだ
から飯を食う時にそ奴がグラグラして何とも頼り
な気で、いっそもいでしまおうかとも考えるのだ
が、一度そ奴を捻ってみたところまだその時期で
ないことをそ奴は 「ぶきっ」という悲鳴で教えてくれた。

だが私は、右手がその後も何度かそれをし
ているのを見、右手は実はその 「ぶきっ」という悲鳴聞きたさにそ奴を捻っていることに気付き、我
が右手ながら薄ら寒い気になり ぶると身震いして同時にそ奴を捻る右手を左手で叩き落とした。

しかし、右手はなかなか強情とみえ、そ奴を捻る
のを止めずいつしかそれが右手の常となった。
ある日そ奴の根底がとうとう揺るいでしまったとみえ、ずぶと断末の悲鳴をあげたかと思うと根っこから取れてしまった。
 
その時既に右手がそういうことをするのが当たり前になり日常の何等意味ない動作、息をするように無意識に思ってしまっていた左手は、時既に遅しとばかり、ない頭を抱え苦悶した。

右手はというと、それがいつも当たり前で習慣と
なっていた為、思わず取れてしまったそ奴をただ呆然と見つめるしかなかった。

それから右手はしばし、そ奴を愛おし気に手の平の上で転がしてみたり、時折左手も可哀相がってそ奴を撫でたりもしていたが、やがて右手はそ奴を ぽいと庭に放り投げてしまった。左手は慌ててそ奴を拾い上げ右手をきっと睨みながら『ちゃんと最後まで診てやれよっ』と叱った。それから、『こういう時は ”鼠の歯と入れ換えて下さい”と床下に放るんだよ』と優しく諭した。

私はそれら一部始終をただ じっと見ていた。そして泣いた。なぜなら、私の歯はもう一本もないのだから。